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釈尊 の 人間教育学(三話)



自 然(自ずから然る)



釈尊の人間教育学に入る前に、

 

 先ず、「宗教」「神」「自然」とは何か―――についてお話ししたいと思います。


自 然(おの)ずから(しか)る)


自然の定義


自然の定義について、

禅の大徳鈴木大拙居士の『大拙つれづれ草』(読売新聞社刊)の中に
ある一節

「日本再発見―――自然にかえれ」を約言しておつたえします。

「自然」の定義から始める。

何ゆえに「自然」を「」の中に入れるかというと、

 

自分はこの語が 近来本来の義に用いられないで、


西洋語のネーチュア、
またはラ・ナトュールの義に使われているのに、

 

対抗させて使いたいからである。 

 

近来といっても、それは今からほとんど百数十年前に、

 

西洋の文化、西洋の思想が、

 

洪水のように、わが国に流れこんで来たとき、

 

ネーチュアに対する適当な言葉がないので、

 

やたらと古典をさがした結果

 

「自然」を採用したのである。

 

これが私たちをして、

 

東洋的思想の中で最も大切で根本的なものを、

 

忘れ去らしめた原因となっているのである。


・近頃は、西洋語の訳語を古典の中から見いだすことをしないで、

 

否、そのような学者がいなくなったので、

 

勝手に知り合わせ、持ちあわせの漢語を組み立て、間に合わせておく。

 

その方がむしろ誤りが少なくてよい。

 

なまじいに、古来の成語をあてはめんとすると、

 

錯誤の機会が多くなる。

 

西洋思想のネーチュアと

 

東洋思想の中枢を作り上げている「自然」とは、

 

似たところもあるが、大いに同じからざるものがあるので、

 

それを少し述べておきたい。

 

「日本再発見」は、これから始めなくてはならぬ。

 

 

自分は漢学者でないので、

 

決定的な話はできぬが「自然」のはじめて用いられたのは、


老子の道徳経で「道は自然に(のつ)とる」

(すべては自然にのっとっている。草木の生えるのも自然であり、春夏秋冬の移り変わるのも

自然である。人間の踏み行うべき道も、やはりこの自然にのっとるのが最もいい。)とある。

 

この「自然」は(おの)から(しか)る」の義で、

 

仏教者のいう「自然法(じねんほう)()である。

 

他からなんらの拘束を受けず、

 

自分本来具有のものを、そのままにしておく、

 

あるいはそのままで働くの義である。

 

松は松のごとく、竹は竹のごとくで、

 

松と竹と、

 

各自にその法位(永久絶対の真理)に住するの義である。


西洋のネーチュアには「自然」の義は全くないといってよい。

 

ネーチュアは自己(セルフ)に対する客観的存在で、

 

いつも相対性の世界である。

 

「自然」には相対性はない。

 

また客観的でない。

 

むしろ主体的で絶対性をもっている。

 

「自己本来に然り」という考えの中には、

 

それに対峙(たいじ)してかんがえられるものはない。

 

自他を離れた自体的主体的なるもの、

 

これを「自然」というのである。

 

それで道は 自然に法とりて存する というのである。

西洋のネーチュアは二元的で「人」と対峙する、相克(そうこく)する、

 

どちらかが勝たなくてはならぬ。

 

東洋の「自然」は「人」をいれている。

 

離れるのは「人」の方からである。

 

「自然」にそむくから、自ら倒れて行く。

 

それで 自分をまっとうせんとするには

 

「自然」に帰るより外ない。

 

帰るというのは 元の一になるというの義である。

 

「自然」の自は他と対峙の自ではない、

 

自他を超克した 自である。

 

主客相対の世界での「自然」でない。

 

そこに東洋の道がある。

 

この道を再認識するのが、

 

日本人にとりては、日本の再発見である。

 

「『自然』にかえれ!」である。


行雲流水——行脚生活


行雲流水(こううんりゅうすい)=行く雲、流れる水の如く、

 

悠々と自在に場所や形を変え、一処不住、無執着、自由に生きる姿を指す。

 

 真の禅の修行僧の在り方であり、

 

 雲水という言葉はこれに由来する。


・行脚(あんぎゃ)=僧が修行のため、

                     師のもとを離れ、あるいは新たな師や善友を求めて、

                   諸国を巡って歩くこと。その僧。

 

                   その姿は行雲流水のような漂泊の旅であるから、

                   禅僧の場合は雲水と呼ばれる。


行脚生活


禅寺に入門して二年後の二十歳から七十四歳まで、

 

(いち)(りゆう)一杖(いちじょう)乞食(こつじき)雲水として、

 

度々、全国各地を行脚しました。

 

とくに自己の根本改造を目的とした

 

全国行脚七年有半(昭和五十七年八月~平成元年十二月末迄)は

 

正師を求めての求道廻国行でした。


愚 歌


 

・寺々に 宿をこえども ことわられ

 

星を枕に 岩陰に臥す

 

 

・長良川 こよいの宿は 橋の下

 

川面にうかぶ 月を友とし


駄 句


・飢えてしる 米一粒の ありがたさ

 

・つるし柿 裸ん坊で 寒かろう

 

・み仏の おもみかんじる 笠の雪

 

・藍ぞめの ころもにかかる 雪無心


私は正師を求めて、全国各地を行脚するうちに、

 

何時(いつ)しか自然正師として、

 

その時、その場の情景に応じた禅語を味わい―――

 

日々、一瞬一瞬に変化する自然を観察し、心に写生する。

 

次に、日々、一瞬一瞬に変化する自然の奥にあるものを全身心で掴む。

 

そして、日々、一瞬一瞬に変化する自然の中にとけこみ、

 

自然の本性〈常住不変の真実の姿〉を自己の本性として、

 

自然の理法に 随って 生かされ 生きる

 

自然随法(ずいほう)の境地に住することができるようになっていました。

 

自己を自然に捨入し、

 

以て、自然の本性を 自己の本性として立つ。


山居生活


山は荒れ 人影まばらな山村に

 

日本の土台の 崩れゆくを見る

 

七十四歳の行脚で、

 

国土の荒廃と人心の荒廃を痛感。

 

深く感ずる所あって、日本三大渓谷・伊勢大杉谷の山居に籠り、

 

山を築き、育て、守る「いのちの森建立勧進仏行」に専念して八年。


山作(やまさ)()で あせをながして 働けば

 

足腰きたえ 身は健やかなり

 

八十二(はちじゅうに) からだきたえる 山仕事

 

ゆっくりゆっくり 楽しみながら

 

・読み書きで 頭をきたえ あせながし

 

からだきたえる ()いの日々(にちにち)


真実(ほとけ)のことば


(みね)(いろ) (たに)(ひび)きも みなながら

 

               わが釈迦牟(しゃかむ)()の (こえ)姿(すがた)         (道元禅師)

「峰の色」―――春は木の芽を生じ、夏は青々と茂り、秋は散り、冬は風雪に耐える。

                 この山の景色が、そのまま浄らかな(さとり)の姿にほかならない。

 

「谷の響き」――渓流の声、これすなわち途切れることのない仏の説法が聞こえてくる。

                この説法を耳で聞こうとするならば聞くことはできない。

 

 眼に声が聞こえて、

 

全身心を眼にし、全身心を耳にして、

 

山の姿を見て仏と思い、

 

谷の声を聞いて仏の声と聞ける心境になってきます。


すると、

 

「みなながら」―――峰の色を見て、自己が本来(そな)えている

真実(ほとけ)の心(仏性)を悟ることができ、

               谷の響きを聞いて 

               釈迦牟尼の説法を聞くことができるようになってきます。

 

峰の色は山の姿、

清浄心の(さとり)の世界をいっています。

 

                           谷の響きは、

                  釈尊の真実(ほとけ)のことば」を現わしています。


真実の姿 そのままが 悟りの妙景


朝、太陽は東山から顔を出し、夜、西山に落ちる。

 

このあたりまえの、

 

ありのまま、そのままが、

 

真実(ほとけ)の姿であり、

 

大道の現われにほかならない。

 

  天是天、地是地―――天は地でありえず、天は是れ天、地は是れ地なり。

 

  山是山、川是川―――山は川であり得ず、山は是れ山、川は是れ川、

 

そのままが真実(ほとけ)(すがた)であり、悟りの妙相であります。


山川草木悉皆成仏


山川(さんせん)草木(そうもく)悉皆(しっかい)成仏(じょうぶつ)―――山河大地、森羅万象、ありとあらゆるものは、

 

色を違い形も異なって千差万別の相を呈していますが、

 

山は山、川は川、草は草、木は木、

 

それぞれが本来もっている真実の自分を見失うことなく、

 

お互いに持ちつ持たれつで成り立っています。

 

山作務―――山仕事で使う長い柄の造林鎌、短い柄の草刈り鎌、それぞれの役割に応じて

             

長いものは長いなりに、短いものは短いなりに、

 

みなそれぞれの本分を果たしてくれる、

 

それが そのまま 仏の働きであります。


ただ いただく ばかり


山居生活のおかげで、

 

日々、一切衆生(生きとし生けるもの)の「いのち」をいただいて、

 

生かされ 生きている 自己の生命のありがたさを味わっています。

 

山村の互助社会のおかげで生かされ、助けられ、

 

そして、山からいただく猪肉、鹿肉や山菜、木の実、薬草。

 

渓谷からいただく鮎、山女(やまめ)

 

岩山から湧きだす「いのちの水」、

 

森からいただく 清浄な気吹(いぶき)などなど、

 

ありとあらゆる衆生のおかげで、

 

今、ここに生かされ生きて存在する自己―――ただいただくばかり

 

  何ひとつ 自分のものといえるものはありません、

わがものと いいえるものは 何も無し

 

いただくばかり いただくばかり

 

おかげさまで ありがとうございます。


次回『仏陀となる道・釈尊の人間教育学』(四話)に つづく


自然宗佛國寺:開山 黙雷和尚が、
行脚(徒歩)55年・下座行(路上坐禅)50年 、山居生活、で得たものをお伝えしています。

 

下記FB:自然宗佛國寺【仏心】掲載

 

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感謝合掌  住持職:釈 妙円