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釈尊 の 人間教育学(二話)



釈尊 の 人間教育学(二話)



釈尊の人間教育学に入る前に、

 

     先ず、

 

  「宗教」「神」「自然」とは何か―――についてお話ししたいと思います。


神 と 自然


日本古来の「随神道」(かんながらのみち)とは、

   呼んで字の通り

  「神の道に随う」の意で、

「道」は

   人としての在り方、生き方です。


日本古来の「カミ」(神)は、

   人間の知惠では計り知れない 霊妙不可思議なはたらき、

 

即ち、

   目にみえない 自然の理法 のことをいいます。


GOD(ゴッド)を「神」と翻訳した誤り


 

 

     

 

 

 

 

 

 

ジェームス・カーチス・ヘボン
アメリカ長老会宣教師・医師


ヘボン式ローマ字の創始者ジェームス・カーチス・ヘボン(アメリカ長老会宣教師・医師)が

『聖書』(明治五年刊行)の


日本語への翻訳を行い

唯一(ゆいいつ)絶対(ぜったい)(いち)(にん)造物主(ゴッド、キリシタン用語デウス)

「神」翻訳

それを日本人は「カミ」と読みました。

それについて


  翻訳を手伝った日本人の協力者や


  当時の西洋事情通といわれた知識人たちは、

日本の「カミ」

  「ゴッド」(デウス)との

  本質的な違いについて

深甚(しんじん)な考察を払わず何等(なんら)の疑問を出さなかった。

 

その誤訳が今日に至り、

  誤訳の度合が 格段と拡大して、

 

日本人の宗教観念、

 

神概念の混乱の起因となっています。

 


万物に 神が宿る


日本に現れる神は、

 

一神教といわれる

ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の

唯一絶対の(いち)(にん)造物主 (ゴッド、デウス。アラー)ではなく、

 

天地万物(宇宙に存在するすべてのもの)に遍満する八百万(やおよろずの)(かみ)であります。

 

 

神々の姿は、

 

私たちの目に見ることはできないが、

 

自然界の事象をかりて 

   存在を示しています。

 

そこに

 

私たち日本人の祖先は

 

理論理屈を超えて 

 

直観的に「カミ」(神)を感得しました。

 

 

現代人の不幸は

 

目に見えないものを 見失ったことにある

 


さまざまな 自然神


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

伊勢大杉谷の鎮守
大杉神社の御神体(杉の巨木)樹齢1300年


自然宗佛國寺(じねんしゅうぶつこくじ)の約60メートルほど(かみ)には、

集落の人たちが大切におまもりしている

「山の神」があり、

 ご神体は切り立った岩壁(いわかべ)です。


その上流に位置する村(大杉谷)の

氏神大杉神社のご神体は

 樹齢千三百年といわれる杉の巨木であります。

 

ここには、

 

日本人の神の問題を考えるうえで

 

重要な問題が隠されています。

 


古来、
日本列島は みどり豊かな自然に恵まれていました。


しかし、

人間 と 自然 との力関係では、

まだ 人力は 微力で 

自然の圧倒的支配力をうけていたから、

人間は

 

 大自然の微妙な変化にも 注意を払って

身の安全を確保しました。


人間の防衛本能に根ざす 心理的反応 とみてとれるわけですが、

 

巨岩、巨木、天変地異等に

 

超人的な不可思議な働き

 

もしくは 宿りを直観しました。

 

 

私たち日本人の祖先は、

 

そこに「カミ」(神)を感得しました。

 

 山・川・海、日食・月食、台風・雷・大雨、地震・津波・噴火・大水にかぎらず、

 

 狼、鹿、狐、蛇、熊、猿、(からす)などの動物や

 

 杉、桧、松、(くす)(けやき)などのうち、

 

 ずばぬけて大きいか、

 

 またはきわ立って古いかの巨木、古木のたぐい、

 

 落雷をうけたりして傷ついた大樹などの植物にも

 

 神の宿りをみました。

 

こうして

 

自然神自然信仰、自然崇拝)を基層とする 自然観が誕生し、

 

 森林を主たる生活舞台とする 縄文時代から、

 

 平地を生活舞台にする 稲作弥生時代に移ってからも、

 

 この自然神は

 

 日本人の自然感覚の「母胎」を成し、

 

現代日本人にとっても 心理的古層を形成している

 

といっても過言ではないと思います。

 

 

上のような自然観の中核をなすものが

であり、

 

であって、

 

そこに日本人が 畏敬(いけい)の念を抱き、

 

ある種の崇高な、緊張した心理のもとに

 

「森」や「山」を仰いだのであります。

 

 

 



何事のおはしますをば 知らねども
 

 

かたじけなさに 涙こぼるる    

 

 

(西行法師 伝承歌)

 


山 に 参る


敬虔(けいけん)なクリスチャンの作家の著書に

 

「人間は 創造主(ゴッド)から 地球という環境を管理することを託されています」

 

「人間は 主から地球のよき管理者としての役割を果たすよう求められています」

 

とあります。


西洋では、

 

自然と人間を分かって、

 

自然と人間 を 相対的に観じてきました。

 

西洋では、

 

登山家が「山を征服する」と称しました。

 

東洋、特に日本では

 

山に参る、詣でるといい、

 

山は 神の象徴であります。

 

大和の大神(おおみわ)神社には

 

神殿というものがありません。


山そのものが 千古不滅の神殿であり、

 

拝殿から 山そのものを拝む、

 

山が 神であり、神山であります。


アメリカが進駐してきた時に、

 

これを説明するに どうしてもわからぬ。

 

理解させるのに

 

非常に骨が折れたと伝えられています。

 

これは西洋が

 

自然を支配・管理・征服するという考えを持っていて、

 

山に登ってもアルプスを征服したとか、

 

ヒマラヤを征服したといいます。

 

 

しかし、

 

日本人は 山を征服する などとは考えませんでした。

 

山は神であり、山に参る、詣でるのです。

 

だから白衣を着て、

 

六根清浄を唱えて参詣したのであります。

 

このように、

 

西洋の「山を征服する」と、

 

日本の「山に参る」との間には、

 

山に関する 二つの観念 の相違が存在しています。

 

この両者の観念の違いは、

 

たとえ限りなく小さなものだとしても、

 

見方によっては、

 

限りなく大きなへだたりということができます。

 


ザビエルは Deus(デウス)の 日本語訳を断念した


イエスの軍隊といわれたイエズス会設立メンバー七人のひとり

 

フランシスコ・ザビエル(1506~1552年)は、

 

天文18年7月22日(西暦1549年8月15日—―聖母マリア昇天の祝日)

 

  鹿児島に上陸。キリスト教の伝来です。


ザビエルの布教活動は決して成功したものとはいえませんが、

 

彼がパイオニアとして()いた種は 日本に根をおろしました。


また、マルコ・ポーロの『東方見聞緑』以来、

 

黄金の国ジパングの伝説は

 

西洋に定着していましたが、

 

そのジパングの実際の姿を 初めて西洋に紹介したのが ザビエルです。

 

 

  逆に日本側からいうならば、

 

  西洋の文化が日本に奔流(ほんりゅう)のようになだれこむ

 

  最初の扉をこじ開けたのが

 

ザビエルであります


ザビエルは

 

説教で天体の運行、自然現象に関する説明をして、日本人を魅了しました。

 

 

 しかし、

 

 ザビエルの目的は、

 

 唯一絶対の一人造物主デウス(ゴッド)

 

 天地万物を創造したという思想を 

 

 日本人に 納得させることにありました。


 

 ところが、

 

 日本人には

 

 造物主が 天地万物を作り出した

 

 という キリスト教の教義が理解できませんでした。

 


先に述べたように、

 

日本人の「カミ」(神)の概念は、

 

天地万物に遍満する八百万(やおよろずの)(かみ)を指し

 

「カミ」(神)と天地万物、

 

もちろん  人間との間に断絶はありません。

 

「天地と我と同根、万物と我と一体」であります。

 

 ですから、

 

 日本人は ザビエルの自然現象に関する説明には、

 

 目を輝かせましたが、

 

 だからといって、

 

 キリスト教の造物主デウス(ゴッド)が、

 

 天地万物を創り出したという教義は

 

  納得できませんでした。

 

 

 

   そこで日本人にわかりやすくするために、

 

便宜的にザビエルは

 

「大日」という文字を デウスの訳語 として用いました。

 


大日とは

 

太陽であり、造物主、第一原理である

 

と ザビエルは思っていました。

 

 

   それならば デウスと おおよそ似たようなもの であろうとして

 

「大日」を採用したのです。

 


しかし、

 

 布教活動をしているうちに、

 

大日とは

 

真言密教の教主である「大日如来」のことである とわかりました。

 


これでは キリスト教の立場から見ても大変困ります。

 

   結局、天地万物の造物主 という観念の存在しない日本では

 

  へたな誤解が生まれる ことを恐れて、

 

 

ザビエルは 大日をやめて

 

原語のままで Deus(デウス)の語を使うことになりました。

 


付 記

ザビエルの右腕を 安置する ジェス教会


ローマのヴェネチァ宮殿の西隣にあるジェス教会。

 

もともとは イエズス会本部だが、

 

現在イエズス会本部は別のところに移っている。――(中略)―――。

 

  ジェス教会正面の祭壇にむかって 左側に、

 

  天使が 悪魔をふみつけている大理石の像がある。

 

 

  天使たちが踏み押えている 四体の悪魔 は、

 

  CamesFotoquesAmidaxacaであるという説明が彫りつけてある。

 

  それぞれ 神・仏・阿弥陀・釈迦 を意味している。

 

 

  彼らにとっては 悪魔なのだったが、

 

  現在でもこれを見ていると、

 

  日本人である私は 複雑な思いにとらわれる。


(古川薫著『ザビエルの謎』p46 文芸春秋)

 

 


次回、『釈尊の人間教育学』(三話)に つづく


自然宗佛國寺:開山 黙雷和尚が、
行脚(徒歩)55年・下座行(路上坐禅)50年 、山居生活、で得たものをお伝えしています。

 

下記FB:自然宗佛國寺【仏心】掲載

 

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感謝合掌  住持職:釈 妙円