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釈尊の生い立ち



仏陀となる道

釈尊 の 人間教育学(四話)



釈尊の生い立ち


最初に 釈尊の出生から 

出家前までの道筋を

(おお)まかに押えておきたいと思います。


釈尊の意味


―――釈尊とは、

釈迦牟尼世尊(しゃかむにせそん)というのを略して、

  最初と最後の二字で 呼んだものといわれています。

普通には 釈迦牟尼仏 ともいわれ、

これらの語は

  いずれも仏教の開祖に対して、

  仏教徒が呼ぶ尊敬の言葉です。

それは釈迦族出身の聖者(牟尼)として

  世尊(世の中で最も尊い人)、

または仏陀(仏は仏陀の略)ということです。

仏陀とは 完全な人格者を意味し、

  世尊と同義語です。

日本では釈尊のことを

  単に釈迦と呼ぶ場合がありますが、

釈迦とは、

 

釈尊が出られた種族または国の名であって、 


  厳密には 釈尊自身を指すものでないから、

  単に釈迦と呼ぶのは当たりません。


釈尊の誕生と本名


―――釈尊はヒマラヤ山麓に位置する釈迦族の都、

カピラ城に住していた小王国のじょうぼんおうの王子として誕生されました。

(

釈尊の本名は ゴータマ・シッダールタといいます。

ゴーダマとは「最上の牛」の意味で、

牛を神聖視するインドでは「最上の牛」はめでたいものであり、

姓としても立派なものとされました。

 

 シッダールタとは

「ものを成し遂げる人」ということを意味します。


生母の死 と 継母


―――生母マーヤー夫人は産後の肥立(ひだ)ちが悪く、

釈尊を生んで 

 わずか七日後に亡くなられました。

この悲しみのなかにも

 

マーヤー夫人の末妹マハーパジャーパティが

 

継母となって 釈尊を養育することになりました。


カピラ城跡


結婚 と 贅沢な王宮生活


―――釈尊は、
父王と継母とのやさしい心づかいと、

小さいながらも富み栄えた釈迦国の資源の裏づけによって、

楽しく恵まれた環境の中で少年時代をおくりながら

王の継承者としての帝王学をまなびました。

長ずるにおよんで、

 鋭敏な感受性と、深い思索性はより顕著になり、

さらに沈思黙想にふける傾向が強くなりました。

    そこで父王は
     

    自分の跡継ぎである釈尊に、

 

    出家脱俗の志望の有ることを見通して

三季に適した三時(さんじ)(インドの熱際時・雨際時・寒際時の三期)の宮殿を設けて住まわせ、

多くの宮女を奉仕させるなど の さまざまな歓楽生活をすすめて、

 

     出家することを

 

     断念させようとつとめました。


釈尊十七歳の時に

 

結婚されたことは

 

多くの仏伝に出ていますが、

 

釈尊には 三人の(きさき)がありました。

原始仏典の『仏本(ぶつほん)行集(ぎょうじつ)(きょう)』によると、

 

釈尊の第一妃はヤショーダラー、第二妃がマノーダラー、第三妃がゴタミーとあります。

 

結婚後しばらくして

 

正妃ヤショーダラーとのあいだに 一子ラーフラに恵まれましたが、

 

その間にも

 

人生の苦相に対する 煩悶(はんもん)は深まるばかりでした。

 

真実とは何か

 

本当の幸福とは何か、

 

と 若い釈尊は悩み続けました。

 

そうした釈尊は、

 

父王の期待に反してある夜のこと、

 

妻子や家族の愛の(きずな)を断ち切り、

 

社会的な地位や名誉や財産などを 振り捨てて、

 

決然と出家の道に入られました。

 

このことは、

 

たとえ五欲(財欲・性欲・飲食欲・名誉欲・睡眠欲)が充足されたとしても、

 

それは 一時的 あるいは 部分的なものにほかならず、

 

そうした世俗的な幸福を否定されたことを意味しています。

 

その時、釈尊は、二十九歳であったと伝えられています。


釈尊は なぜ 出家したか


釈尊は 

 

将来、国王となるべき王子であっただけに、

 

恵まれた環境、なに一つ不自由のない生活を送っていました。

 

にもかかわらず、

 

釈尊は なぜ出家という生活の大転換をはかられたのか。

釈尊の出家の理由は、

仏教の解決すべき課題

 

明らかに示しているといってもよいと思います。

それはまた、

 

仏教の出発

 

意味をしています。

 

釈尊が出家された理由を

 

考察する手がかりとなる

 

二つの説話 を紹介します。

 

 


樹下観耕


生き物の噛みあう有り様を見て、

 

少年の心には、

 

早くも人生の苦悩が刻みつけられた。

 

・仏典によると、釈尊十二歳の春、

 

父王は例年のとおり

 

田園に出て多くの臣と一緒に(すき)()れの儀式を行いました。

 

この農耕儀式に

 

釈尊も参加して農夫の働いている姿を眺めていました。

 

釈尊は農夫たちが裸で耕作し、

 

牛を使いムチをあてる有様、

 

熱い太陽の光が真上から照りつけ、

 

泥と汗にまみれあえぎながら働いている人と牛を見て、

 

人間と牛の苦しむ姿が心に焼き付きました。

 

 


四門出遊(しもんしゅつゆう)


 
四門出遊の仏伝は、

  歴史的事実の叙述(じょじゅつ)ではなく説話です。

説話は常識的な、ないし科学的な時間を超越して創作されています。

そして、これすべてを説話として読むとき 始めて本当の意味がわかってきます。

この説話の場合、

 

釈尊が物心ついてから十数年間経験されたこと、

 

感銘を受けられたことを、

四門出遊という劇的な場面に構成して創作されています。

また、その場面にしても、

郊外の御苑に遊びに行くという楽しい娯楽と、

老・病・死の人間苦悩の実態という

両極端を対照させているところに

 

演出効果のたくみさが現れ、

説話なればこそ表現できる臨場感が伝わってきます。


カピラ城跡近郊にて


さらに釈尊の心を打ったのは、

 

鋤で掘りかえされた土の中から虫が現われ、

 

どこからともなく小鳥が飛んで来て 虫をついばみました。

 

そして(ひな)にやるためであろうか、

 

小鳥は虫をくわえたままで飛び去って行く、

だが小鳥は遠くまで飛べませんでした。

一羽の猛禽(もうきん)があらわれて、小鳥を捕らえたからです。

 このように、

生き物どうしが互いに食べ合わなければならない

自然界の弱肉強食の残酷な事実を目の前に見て、

少年釈尊はいたたまらず、

近くの森に行き

(えん)浮樹(ぶじゅ)の木陰に坐って、静かに沈思黙想しました。

農民の苦しい労働、

地中の虫の生命、

 

泡を吹きヨダレを流してムチ打たれている牛、

 

 

そして、

この事実が 少年釈尊に強い襲撃を与え、

少年釈尊の心に 大慈悲 が芽生えました。


老・病・死への苦悩


釈尊は若き日ことを 次のように述懐されました。

宮廷の栄華もすこやかな肉体も、

 

人から喜ばれるこの若さも、結局この私にとって何であるか。

 

人は病む。

 

いつかは老いる。

 

死を免れることができない。

 

若さも、健康も、生きていることも、

 

どんな意味があるというのか、

 

人間が生きていることは、

 

結局なにかを求めていることにほかならない。

 

しかし、

 

この求めることについては、

 

誤ったものを求めることと、

 

正しいものを求めることの二つがある。

 

誤ったものを求めることというのは、

 

自分が老いと 病と 死と を免れることを得ない者でありながら、

 

老いず 病まず 死なない ことを求めていることである。

 

正しいものを求めることというのは、

 

この誤りをさとって、

 

 老いと 病と 死とを 超えた、

 

人間の苦悩のすべてを離れた境地を求めることである。

 

今の私は、この誤ったものを求めている者にすぎない」

 

(『仏教聖典』仏教伝道協会――と。

 


カピラ城跡


これに類する釈尊在家時代の()(ゆい)反省は、

数多くの仏典に伝えられています。

  これによって見ると、

  釈尊は若い頃から、

  老・病・死などに対する苦悩や恐怖の感受性が、

普通の人以上に、きわめて鋭敏であったことが知られます。

これには、釈尊誕生の後、

わずか七日で生母と死別したことが 

 

影響しているのかもしれません。

 

そして、苦しみ 悩みを 強く深く感ずるから、

 

これを離れ免れたいという欲求も、

 

人一倍強かったのではないかと思います。 

 


四門出遊の説話


野生司香雪作 釈尊出城


釈尊の出家の動機として、

 

四門出遊ということが伝えられています。

 

それによれば、父王は釈尊の心を楽しませるために、

 

首都カピラ城の四つの門を出て、郊外の御苑に遊楽にやりました。

 

東門にさしかかったとき、

 

髪は白く、歯は抜け落ち、腰は曲り、

力なくやせ衰えた老人を観ました。

自分はいま若さに満ち、青春を謳歌いるが、

やがて自分も老いることに思いがいたり、

不快の念にかられて引き返しました。

 

南門にさしかかった折り、

病み衰え、苦しみあえいでる病人を見ました。

いま自分は健康であり、

安全に生きているという自信をもっているが、

しかし、いつ自分も病いにかかるかもしれない、

という不安にかられて帰途につきました。

 

西門にさしかかった際、

死者の葬列に出会いました。

死者を取り囲んで嘆き悲しむ人々を見て、

自分はいま青春を謳歌し、

健康な生存に誇りを感じ、現在の安定に満足しているが、

しかし、やがては、自分もそうした存在の全体が根底から

一瞬に打ち砕かれることに気づかれて、

心を乱して帰りました。

 

北門にさしかかったとき、

一人の沙門(出家者)に出会いました。

釈尊は、

彼の柔和な笑みをたたえながらも威厳のある態度に胸を打たれて、

これこそが、

かねてから求めていた自分の進むべき道である、

と決意して帰りました。

 

 


修学旅行中の女学生と(カピラ城跡・インド側)


・この「四門出遊」の説話は、

「人間というものは、

 

老い、病、そしてを免れることは出来ない。

 

このような人生における苦悩を超越するためのもっとも端的な道は、


出家修行者となり
さとりを実現することである」

 

 

という点に 最大の力点を置いています。

 

この説話の中にあらわれる三種の

 

すなわち老・病・死は

 

私たちが生まれ生存しているからこそ

 

経験しなければないものです。

 

したがって、

 

煎じ詰めれば

 

私たちが生まれ、そして生存していることも

 

 であると考えることができます。


これら生・老・病・死の四つは

 

まとめて四苦と呼ばれます。

四苦はまさしく私たちが生きている以上

 

決して免れることが出来ない苦なのです。

この「四門出遊」の説話は

 

まさにこの四苦とその超越を主題としているのです。

 

なお、

 

四苦に、

 

・愛別離苦(愛するものと別れる苦しみ)

 

怨憎会苦(怨み憎んでいるものに会う苦しみ)

 

求不得苦(求めるものが得られない苦しみ)

 

五蘊盛苦(肉体的生存そのものの苦しみ)

の四つを加えたものを

 

八苦と言います。

 

俗に四苦八苦というその語源です。


*次回『仏陀となる道・釈尊の人間教育学』(五話)                                    —――「釈尊の根本思想」に つづく


自然宗佛國寺:開山 黙雷和尚が、
行脚(徒歩)55年・下座行(路上坐禅)50年 、山居生活、で得たものをお伝えしています。

 

下記FB:自然宗佛國寺【仏心】掲載

 

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感謝合掌  住持職:釈 妙円