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天上天下唯我独尊


天上天下唯我独尊




釈尊は、お生まれになると、
  ただちに、七歩歩かれ、

 

右手で天を指し、左手で地を指して、

 

四方を顧みて

 

「天上天下唯我独尊」と叫ばれたといいます。

 

しかし、

 

いくら釈尊でも鹿の子でもないのに、

 

生まれてすぐに七歩も歩かれて  

 

こんな言葉を叫ばれたとは 考えられません。



釈尊とて

私たちと同じ人の子ですから、

 

やはり「オギャー」という産声、

 

実はこれが「天上天下唯我独尊」にほかならないのです。

 

つまり、この「オギャー」の一声、

 

これこそはだれに気がねも、遠慮もない。

 

野心もなければ 欲望もない。

 

そんな分別などの 一かけらもない

 

     無心清浄な天地いっぱい「オギャー」です。


この一声、

この生まれたままの姿こそ、

尊厳にして 偉大なものであるということを

 

「天上天下唯我独尊」

 

神話的に表現したものにほかなりません。

 

 

天地を指し、

 

四方を顧みたということも、

       

          天地いっぱいの人格という

 

         表現と見るべきでしょう。


釈尊と同じく

 

万人も「オギャー」と叫びます。

 

私たちの「オギャー」との違いはありません。

 

 

万人等しく生命の尊厳 を 叫んだのです。

 

ですから

 

万人一人ひとりがすべて「天上天下唯我独尊」であり、

 

自己の尊厳を見る者は、

 

他のすべてのものに尊厳を見る者であります。

 

 



また、

 

生きとし生けるもののみならず、

 

広く無生物にいたるまで、

 

尊厳を見るとき、

 

釈尊三十五歳の十二月八日、

 

東天に輝く暁の明星を一見した瞬間、

 

さとりをひらかれて

 

思わず感激のあまり

 

「奇なるかな、一切衆生、ことごとく仏性有り」

 

「草木国土 ことごとく 皆な仏なり」

 

の言葉が叫ばれるのです。


この「唯我独尊」を

『広辞苑』『大辞林』などの国語辞典や、

名のある知識人でさえ、

利己的独善の意味に受け取っているのを

見ることがありますが、

 

まったく反対の意味であることを  

知っていただければ

ありがたく思います。


自然宗佛國寺:開山 黙雷和尚が、
行脚(徒歩)55年・下座行(路上坐禅)50年 、山居生活、で得たものをお伝えしています。

 

下記FB:自然宗佛國寺【仏心】掲載

 

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感謝合掌  住持職:釈 妙円