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南無阿弥陀仏



南無阿弥陀仏

無量寿・無量光


 

私が幼児の頃、祖母に連れられて よく寺にお説教をききに行き、

 

「南無阿弥陀仏」の意味もわからず、

 

ただ小さな手を合せて称えました。

 

この幼児の頃、

 

意味もわからず称えた「南無阿弥陀仏」は体にしみ込み、

 

八十三歳になった今も、

 

山作務(山仕事)で一心につるはしを振り下ろすとき、

 

自然に「南無阿弥陀仏」と称えています。


  「南無阿弥陀仏」は古代インドで使われた言語です.


そのインドの古い言葉が

仏教と一緒に伝わり、日本語の中に入ってきて、

誰一人知らぬ者はありません。

むしろ 

 

それが「無量寿・無量光の覚者に帰依し奉る」

という意味のほうをしらない人が 多いかと思います。


「南無」帰命(心からまことをささげる)。

「阿弥陀」無量寿(無限の時間)、 無量光(無限の空間)。

       「仏」覚者、即ち、覚れる者の意です


即今(いま)・此処(ここ)・自己(われ)


仏教は、

  私たちの*
宇宙が誕生してから138億年の時間の最先端、


 今、ここに 

 

こうして生かされて生きて存在する

 

自己の尊さ、

 

ありがたさに目覚め

 

「今、目の前の今を力強く生きる」ための人間教育学です。

 

「宇宙」は、漢語で

 

は屋根でおおわれたもの、地球をとりまく空間。

 

は古代から現代までの時間的なすべて」が語源です。

 

天地四方のすべての天体をふくむ全空間をいう言葉です。


無限の時間・無限の空間


今、ここに生きて存在する私の生命には、

 

両親の細胞が生きています。

 

両親の細胞が生きているということは、

 

四人の祖父母の細胞が、

 

八人、十六人と数えていくと、

 

十五代前の親の数は、六万五千五百三十六人もなります。

 

その中の一人の親が子供の時に死んでいたら、

 

この私は、今、ここにこうして存在していないのです。

 

この様に考えていくと、

 

人類が地球上に出現したときからの細胞が、

 

今、この私の身体になっているのです。

 

 否、人類が生じた時といいましたが、

 

 何もないところから出来るはずはないから、

 

 生じる以前からの大宇宙の生命のはたらきが、

 

 私を存在させているのです。

 

 これを「無量寿」(無限の時間)といいますが、

 

 「寿」は時間で 私が生じているのです。

 


これを紙の上に縦の線で書いてみます。

また、私たちは現在世界各国から食料を輸入して

 

自分の生命として生きています。

 

それだけではなく、空気を、水を、太陽を、月をというように

 

限り無き空間を 生命として生きています。

 

これを「無量光」(無限の空間)といいます。

 

「光」は空間のことです。

 

これを紙の上で横の線で書いてみます。

 

縦と横と交わった一点が出来ます。

 

  この交わった一点が「今」、「ここ」です。


今、ここ、この一点が 

 

私の「生命」ですが、

 

この一点は、無量寿、即ち、無限の時間であり、

 

無量光、即ち、無限の空間であります。

 

これを「阿弥陀」といいます。

 

 



138億年の宇宙生命の無限の時間の中に、

 

無限の空間の中に、

 

今日只今、

 

限られたこの瞬間、

 

この一点

 

自分が 生かされて生きて居るということ、

 

これが感激でなくて何であろう。

 

驚異でなくて何であろう。

 

不思議(言葉でいうことも心で思い計ることもできないこと)でなくて何であろう。

 

ともかく、無限の時間・無限の空間の中の、

 

今、ここ、というこの瞬間、

 

この一点に、

 

こうして生かされて生きて存在している驚異、感激、これを確りと味わい、

 

朝 夕

 

おかげさまで ありがとうございます

 

と手を合せて生きる。

 

それが 南無阿弥陀仏の生活 であります。

 


人の生をうくるはかたく

 

やがて死すべきものの

 

いま生命あるはありがたし

 

釈尊の真理の言葉『法句経』182

 

 


自然宗佛國寺:開山 黙雷和尚が、
行脚(徒歩)55年・下座行(路上坐禅)50年 、山居生活、で得たものをお伝えしています。

 

下記FB:自然宗佛國寺【仏心】掲載

 

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感謝合掌  住持職:釈 妙円